力造先生
2020年10月18日、ゲームデザイナーの力造先生がご逝去されました。
力造先生との出会いは、関西でのイベントでした。
その頃はまだアマチュアとして活動されていて、お名前も今とは違っておられました。
当時、『サタスペ』がイエローサブマリンさんからリリースされたばかりだった自分に、挑みかかってくるかのような瞳でしっかと見つめられ、「ま、負けないぞ」という気分になったのを覚えております。
言葉を飾らずに言えば「元気なお兄ちゃんだなぁ」という印象を持ちました。
それからしばらくしてグループSNEに所属された力造先生は、2006年に富士見書房から『デモン・パラサイト』のリプレイで華々しいデビューを飾ります。
あっちゅー間に、抜かれちゃったなぁ。という気分になりました。あのまなざしを思い出し、追いつくように、自分も必死にがんばりました。
グループSNEをおやめになられた後、東京にやって来られ、『神我狩』を発表されました。発売前、「(表紙のイラストのモチーフが『シノビガミ』と)かぶっちゃってすみません」と担当編集さんからあやまられました。自分としては、よくあるモチーフですし、と思っていたのですが。クリエイティブに関しては、とても繊細な面のある力造先生だから、気にしてるかもと思い、イベントでお会いしたとき「ぜんぜん気にしてないですよー」と話したら非常に恐縮されてしまいました。スルーでよかったかも。
その後、NGPを立ち上げられ、お忙しい時間も増えていき、イベントなどでお話する時間も少しずつ少なくなっていったような気がします。
正直な話、力造先生との思い出は、ここに書いたような話と、あとは飲み会の定番の「ラーメンマンがいかにすごいか」というお話だけです。なので、訃報に接したとき、ご葬儀にかけつけるかどうかとても迷いました。
ですが、テーブルトークRPGの制作者というのは、とても少なく、同じ立場の、同じ時代にゲームをつくった人間として、その大変さを知る者としてぜひ最後に立ち会いたいな、と思ってうかがわせていただきました。この世界にあまり平坦な道はありません。こちらの勝手な思い込みかもしれませんが、それが分かる人間として、その苦労を讃えたい気分がありました。
Twitterで「またお話しましょう」とした約束もありましたし。
棺の中の力造先生は、とても柔らかな笑顔をたたえておられました。加納先生が「クリティカルをしたときのようなドヤ顔」と話しておられました。悲しさに耐える三輪先生を見て、以前にうかがっていた『ブルーフォレスト』のセッションの話を思い出しました。小太刀先生のとまどいに、同じ気持ちを感じました。
からすば先生の弔辞の中で「本名も知らず、ゲームにまつわるときに出会う。時にゲーム制作をめぐって意見を戦わせることもあったが、兄弟のような絆があった」という、お二人の関係を感じさせる言葉がありました(うろ覚えなので間違ってるかもしれません。もし、間違っていたら申し訳ない。自分はそのように受け取りました)。
ぼくも力造先生のお名前は、アマチュア時代のものも含め、幾つか聞いていたのですが、ご本名は葬儀ではじめて知りました。からすば先生のように濃密な時間を過ごしたわけではありません。ですが、その存在は、本越しに、ゲーム越しにとても強く感じました。こだわりのゲームデザイン、誠実なデータ群、サービス精神満載のみっちり感……他にもたくさんありますが、企業秘密ということで。
同じ時代にゲームを作り続けた、手強く恐ろしいライバルです。すばらしい造り手だと思います。力造先生の作品や、力造先生の薫陶を受けた後輩たちは、これからもテーブルトークRPGの世界を盛り上げてくれるでしょう。それは、ライバルとしてはとても恐ろしく、ですがテーブルトークRPGを愛する一人としては、とても頼もしい存在です。
あのまなざしを思い出し、明日からまた負けないようにがんばりたいと思います。
本当はラーメンマンの話の合間に、こんな思い出話を、顔つきあわせてしたかったですね。
また追い抜いていってしまわれました。
早すぎますよ。
力造先生のご冥福をお祈りいたします。